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不動明王

十三佛の最初に、私たちが初七日忌の本尊として手を合わせて頂いているのが「不動明王」と言われる仏様です。この不動明王と言われる仏様は、普段「お不動様」と呼ばれ、真言宗においては、お寺の本尊様としてお祀りされているお寺も多く、大変に親しまれている仏様です。和光寺の本堂内にもお祀りいただいております。

そのお姿というのは、「青(しょう)黒(こく)」と呼ばれ黒の混じった青のような色で力強い青年の姿で、お顔は憤怒尊と言われ目くじらをたてて睨み付けている、見るからに恐ろしい形相をしていて、右手には剣を持ち、左手には「羂索(けんさく)」と言われる重りの付いた縄をさげています。そして背後は火炎に包まれ、盤石という重たそうな岩の上に座っています。ご尊像としては、立っている姿のものもあります。

 多くの仏様は、大変優しく温和な表情をしております。その中で、この憤怒、怒りの表情は異質な存在のように思われますが、これは、人々を救うためには優しいだけではダメなのだ、時には厳しく叱りつけることも必要なのだと、人々を導くために、敢えて怒りの姿で現れるのです。その怒りこそがお不動様の慈悲なるお姿であるのです。親は子供が悪さをすれば叱りつけることもございます。しかし、これは当然、憎くて叱っているわけではありません。そういった子を思う親の気持ちがお不動様の憤怒の表情として表れています、自分の子供だけでも大変なのに赤の他人、ましてはどんな人でも強い力でお導きくださるのがお不動様です。その強い志から「菩提心堅固」と言われ、その心が動かないことをさし「不動」明王と呼ばれています。

 更には、背後の火炎は、今にも飛び出しそうな勢いのある形で、人々のあらゆる煩悩を焼き尽くしてくれます。両の手には剣と索と言われる縄をお持ちになり、右手の「智(ち)剣(けん)」と言われるお不動様の智慧の剣により人々の悪業という悪い習慣や行いを断ち切り、左の索により、悪い方に心が揺れ動かないように縛りつけるのです。こういったお姿により、すべての障害や悩みを打ち砕き、人々を救いとってくださるということで、不動堂で行われたお護摩修行の様に、皆様方のお願い事と共に、正しいお導きをお不動様にお願いするのです。

 亡き人は、不動明王によってあらゆる煩悩を焼き尽くし揺るぎない菩提心を発こして、仏の道を歩んでいくことから、初七日忌の本尊様としてお参りを頂くのです。

十三仏02釈迦如来(二七日忌).jpg
 
釈迦如来

 釈迦如来は仏教を開かれた釈尊、お釈迦様に由来した仏様です、特に、二七日忌にご本尊様として手を合わせて頂いております。

 お姿としては、胸の前で転法輪という印を結んでいます。この転法輪の印は、右手を内に向けて、中指・薬指を曲げ、左手は外に向けて、中指・薬指を曲げています。これは説法の印とも言い、お釈迦様が説法をしているお姿を意味しています。

 釈迦如来は歴史的には、今から2500年ほど前、西暦ですと、所説ございますが紀元前566年にシャカ族の王子様として、淨飯王とマーヤー夫人の間にお生まれになりました。産まれた時の名前はゴータマ・シッダールタといい、後にブッダガヤーの菩提樹の下でお悟りを開かれ「ブッダ」となられました。釈迦は「釈迦牟尼」の略で、釈迦族の「釈迦」と、聖者と言う意味の「牟尼」をつけて「釈迦牟尼」と呼ばれています。また、釈迦牟尼世尊とも呼ばれ略して「釈尊」とも呼ばれています。色々な呼ばれ方がございますが、ここでは釈迦如来ということで同じお釈迦様を説明させていただいております。

 その生涯はルンビニー圓という場所でお生まれになり、生まれるやいなや、7歩歩いて「天上天下唯我独尊」と言ったと言われています。こういった逸話は色々とございますが、お釈迦様のお生まれになる姿を通して仏教を語っているのだと言われています。そして、お釈迦様は29歳の時に「人間はいかにしたら生・老・病・死の苦しみを乗り越えられるのか」という苦悩により出家しました。6年の修行の後、ブッダガヤーの菩提樹の下で悟りを開きました。それから45年間、インドの各地に説法の旅をし、クシナガラの沙羅双樹の林で涅槃に入りました。

 そこから寺院行事として、4月8日には誕生を祝う花祭り、12月8日に悟りに向かって精進を誓う成道会、2月15日に大いなる徳を称えて常楽会が行われます。

 お釈迦様は入滅の直前に「教えを燈明として、自分を燈明として、大切に生きていきなさい」と告げられました。自分自身の苦悩を取り除くのは自分自身なのだと、そのためには正しい教えが必要なのだと。また「水を飲んで牛はこれを乳にします、水を飲んで蛇はこれを毒とします」ともおっしゃっております。同じ水を飲んでも乳にする者もいれば、それを毒にする者もいるのです。毒にしないための正しい導きのために、説法の長い旅をされているのです。

説法することを、法の輪を転がすと言い、輪は古代インド皇帝の最強の武器です。したがって、説法はこの世の最強の武器のように優れており、人々の煩悩を打ち破り正しい信仰に導く智慧なのです。亡き人は釈迦如来により、教えの徳を残さず授かると言われています。

 
十三仏03文殊菩薩(三七日忌).jpg
​文殊菩薩

文殊菩薩と言われる菩薩様の名前は、元々梵語のマンジュシリーを音訳した「文殊師(もんじゅし)利(り)菩薩」あるいは「文殊師利法王子」の略称であります。釈迦の死後、インドに生まれた実在の人物で十大弟子とも深い関係があったとも言われています。「三人寄れば文殊の知恵」と言われるように、この仏様は智慧を象徴しており、ふつう普賢菩薩と共に釈迦如来の脇侍として「釈迦三尊像」として祀られることがあります。特には三七日忌の本尊様として手を合わせていただいております。

 文殊菩薩は、汚れを知らない青年の姿をしております。身体の色は欝(うっ)金(こん)といわれる最も尊い金色で、頭には、五(ご)髻(けい)と呼ばれる五つに束ねた髪の上に宝冠を戴き、その後ろには円光が輝いています。右手には金剛剣をもち、左手には梵篋(ぼんきょう)と呼ばれるお経の入った箱の載った青い蓮華をもっています。また、獅子の上の蓮華台に座っている像もあります。

 頭部の五つの髷は大日如来の五つの智慧を象徴していると言われるように、文殊菩薩が年若い青年の姿をしているのは、大日如来の命を受けて、私達と一緒に歩んで行こうとする誓いを表しています。また釈尊の跡継ぎとして、仏法を絶えさせないことから「法王子」の尊称があり、小乗と言われる上座部においては「智慧第一」と呼ばれるお釈迦様の直弟子である舎利弗に対して、大乗仏教の代表者と呼ばれています。

 また右手の剣は利剣と呼ばれ、悟りの妨げとなる欲望やこだわりを断ち切ってくれるためのものです。左手の梵篋(お経の箱)には「般若経」が入っています。般若というのは仏の智慧を表していて、ここに象徴させる智慧とは「空の智慧」であります。生きていくうちに色々なものを経験してそれが「こだわり」として私達には残ります。この「こだわり」から離れるための智慧が「空の智慧」になります。

 分かりにくいかもしれませんが、この仏の智慧というのは、例えば真っ暗闇の中、手探りで一歩一歩前に進んでいくのが、私達が経験するもの、それを知識といいますが、そこに一筋の光により正しい道を示してくださるのが仏の智慧です。暗い井戸の底を見るためには、明るく照らしてあげればよいのです。そしてその智慧は、無尽蔵にあって、文殊菩薩が望む人にすべて等しく授けてくださるのです。

 亡き人は、この文殊菩薩から、釈尊の教えをより深く理解する智慧を授かると言われております。

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​普賢菩薩

 普賢菩薩と言われる仏様は、サンスクリット語で「サンマンダバッダラ」といい、「サンマンダ」とは「あまねく」、「バッダラ」とは「最も賢い」と言う意味で、普賢と呼ばれております。また「すべてにわたって賢い善である菩薩」であります。また、四七日忌の本尊様として手を合わせております。

 普賢菩薩が左手に持つ蓮華は、清らかな心を表し、その上の利剣は煩悩を絶ち、人々の利益向上の為に、徹底的に教えを実践していくことを表します。一般的には六本の牙を備えた白い象に乗っていて、女性的な像が多いです。

 この六本の牙の白い象というのは、お釈迦様がお生まれになる前、お母様のマーヤー夫人の体内に入ったというお話しがありますが、六本の牙とは仏教での悟りに至るための六つの実践徳目を表しております。それを「六波羅蜜行」と言います。この六波羅蜜行を修する菩薩様として、この普賢菩薩は実際に実践することによって、私たちを導いてくださるのです。六波羅蜜とは、布施(施しの心)・持戒(教えを守る心)・忍辱(耐え忍ぶ心)・精進(弛まず励む心)・禅定(静かなる心)・智慧(正しい判断の出来る心)という六つの行いです。これを少し砕いて説明すると、「他に施し、自らはおきてをまもり、精進努力し、自省して、正しい智慧をいただく」のです。

 それは私達においてつぎのような内容になります。

「まわりの人々を尊敬する」

  これは自己を尊重すると同時に、周囲の人々を心から敬っていくことです。

「自分の行いを常に反省する」

  私達は日々の生活の中で、貪りや怒りや嫉妬から、利己的で自分勝手な行いをしてしまいがちです・そうならないように、常に自分の行いを見直すように努力していくことです。

「善いことは見習う」

  善いことは素直に見習い、自分の生活の中に生かしていこうとする心がけのことです。

「まわりの人々の役に立つことをする」

  自分にできることで、他人や社会の役に立つことは、惜しみなく率先して行っていこうとする生活態度を持つことです。

この普賢菩薩の願いは、すべての人々が救われるまで尽きる事のない「広く限りない願いです。亡き人は、普賢菩薩によって、釈迦如来の教えを実践していく導きをしていただくと言われています。

​ 特に四七日忌のご本尊様として手を合わせていただいております。

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地蔵菩薩

 地蔵菩薩という仏様は、「おじぞうさま」と親しみをこめて呼ばれており、日本においては観音様や阿弥陀様とともに最も親しまれている仏様です。和光寺のご本尊様がこのお地蔵様になります。

 地蔵菩薩は人々の悩みや苦しみを救うために、お釈迦様がお亡くなりになってから、五十六億七千万年後、この世に弥勒菩薩がお出でいただくまでの間、すべての人々をお救いいただくという仏様です。 特には、五七日忌のご本尊様としてお参りをいただいております。

 六体並んだお地蔵さまを、六地蔵ということで色々な場所でお見受けすることができますが、これは六道すなわち地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上という六つの世界のいずれに陥った人をも救いとってくださる仏様であります。

 六道を表す六地蔵には色々なお姿がございますが、地蔵菩薩のお姿は、右手は願いをかなえることをさす与願印を表し、左手には宝珠を持っておられ、頭は丸刈りの出家者のお姿をしています。地蔵菩薩は、この五濁悪世という非常に苦しみに満ちた世の中で、みずからが人々を救うのにふさわしい姿として、人々と最も近い存在である僧侶の姿で、罪深き我々を導いてくださるのです。お地蔵様は唯一仏像の中で、僧形をしておられます。

 それに一般的には地獄道に落ちた人を救うため右手に錫杖を、左手には宝珠を持っての立像となっております。地方によっては化粧地蔵のお姿もあります。さらに現代では水子のための子供を抱いた水子地蔵や、交通事故で亡くなった人のための交通安全地蔵、お年寄りのためのボケ封じ、ガン封じなどの延命地蔵もあります。

 地蔵菩薩の持っておられる錫杖は、修行を妨げようとする誘惑を取り払ってくださり、宝珠は修行を深めるための智慧や信仰心を育てて下さるものです。

 お地蔵さまの信仰は古くからあり、その教えは地獄、極楽の思想と結びついて死後の冥土にも救いがおよぶとして、貴族から一般の人々の間に広まりました。特には、「三途の川」や「賽の河原」といった死出の旅路の中には、「一つ積んでは母のため、二つ積んでは父のため」という悲しい物語が説かれています。そのとき、お地蔵さまが表れて子供たちを救ってくださるのです。そこで亡くなった子供のためにと地蔵菩薩に、よだれかけや帽子やこどものおもちゃをお供えするのです。

 今を生きている人々が、亡くなられた最愛の人にこそ仏の慈悲の心が向けられることを願った暖かい心がお地蔵さまに示されているのです。

 お地蔵さまは、亡き人を地獄に落ちないように、六道の輪廻から抜け出せるように導いてくださるのです。

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​弥勒菩薩

 弥勒菩薩というお名前は、梵語の「マイトレーヤ」音訳したもので、「慈悲深い者」を意味しており、意訳されて「慈(じ)氏(し)菩薩」とも呼ばれています。特には、六七日忌のご本尊様として、普段お勤めをいただいております。

 弥勒菩薩は、頭には五仏(大日・阿閦・宝生・無量壽・不空)を表す宝冠を戴き、その宝冠には卒塔婆(五輪塔)が描かれています。そして、右手には紫の蓮華を持ち、蓮華の中には智水がはいった水差し(瓶)が載っています。左手は親指と人差し指の先をつけた説法の印を結んで、膝を撫でるような恰好をしています。そして蓮華台の上に結跏趺坐しています。

 弥勒菩薩は、お釈迦様の入滅後、五十六億七千万年の後にこの世に現れて、お釈迦様の説法に漏れた人々を救済する未来仏として知られています。現在は兜率天という天界の内院に住んでいるとされ、常に説法をしているとされています。

 いずれにしても遠い未来、兜率天での寿命が尽きたとき、弥勒菩薩はこの世に現れることになります。弥勒菩薩がこの世に出現することを「弥勒下生(みろくげしょう)」といいます。今住んでいるとされる兜率天の内院は、次に如来として人間界に現れるべき菩薩が住む場所で、かつて前世の釈尊がすんでいたとされます。そこには四十九の宮殿、「四十九院」があると」されていて、奈良時代には、行基様と言われる大変有名なお坊さんが、これを基にして諸国に四十九の寺院を開創したと伝えられています。

 また、弥勒菩薩は宝冠にもあるように、「塔」が一つの象徴となっています。かつて、お釈迦様の十大弟子の中に摩訶(まか)迦葉(かしょう)と言われる方がいて、その方はブッダガヤの北東にある鶏(けい)足山(そくせん)と言われる山で入定したとされていますが、未来に出現する弥勒菩薩に手渡すべき袈裟をお釈迦様より託されていたとされています。弥勒菩薩は兜率天より下生し、鶏足山の摩訶迦葉を入定より目覚めさせ、その袈裟を受け取るとされています。ですので、弥勒菩薩の塔は、摩訶迦葉の仏塔を表しており、お釈迦様の衣鉢を継ぐことを意味しております。

 弥勒菩薩は、右手の蓮華の上にある瓶(賢瓶)の中の智慧の水を、悟りを得ようと修行している人の頭に注いで、速やかに迷いや欲望という障害を除いて、成道させてくださいます。つまり弥勒菩薩はとは、老若男女を問わず、悟りを得たいと願い、仏教を心から信仰する人の迷いや欲望を取り除いて必ず成仏させてくださる、私達を大きなやさしさと思いやりをもって勇気づけてくださる仏様です。

 亡き人は、弥勒菩薩に勇気づけれ、仏の道を歩むとともに、子々孫々を導く徳を授けて頂く仏様です。

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​薬師如来

 薬師如来は正式には、「薬師瑠璃光如来」と言います。梵語においては「バイシャジヤグル」と言われており、「バイシャジヤ」の「薬をくださる」と「グル」の「先生」とで、「医薬の先生」という意味になります。そこから医学の王様「大医王仏」や「大医王尊」とも呼ばれています。お薬師さまは七七日忌のご本尊様です。亡き人は、この四十九日、また中陰が明ける日でもあります。これまで初七日から諸尊に守られ修行を重ねてまいりますが、最後に薬師如来があその誓願によりいろいろな障りを取り除いてくださるのです。

 薬師如来のお姿は、右手には施無畏の印を結んで、人々に安らぎと勇気を与えて、また、左手には薬壺を持って、病苦の苦しみを除くという誓願を示しています。

 お薬師さまは特に、薬の壺(薬(やっ)壺(こ))を持っているのが特徴で、これは人々の病に応じてお薬を与えて下さる「応病与薬」を表しています。今の私達の世の中は、診察は病院で、お薬は薬局でと医薬分業でございますが、お薬師さまは病院の役割も、薬局の役割も両方してくださる、まさに医薬兼備の仏様であります。それというのは、お釈迦様の人に応じて法を説くという「待機説法」をとてもよく表している仏さまでもございます。

 阿弥陀如来の西方極楽浄土であるのと対称的に、薬師如来の浄土は、東方浄瑠璃世界とされる。日本でも人形淨瑠璃みたいに古くから文化の中に溶け込んでいるが、お釈迦様も薬師如来の仏土である浄瑠璃世界が、美しく荘厳され功徳にみちた国であり、日光、月光の二菩薩が脇侍にひかえていることを示し、浄瑠璃世界への往生をすすめております。

 お薬師さまには、脇侍として日光、月光の両菩薩を従え、さらにその下には、十二神将とよばれる十二の護法神がいて、お薬師さまの信者を護るとされています。この十二神将は常に休むことなくお薬師さまの信者を守護することより、それぞれ十二支の動物に配され年ごとにお参りされる方もいらっしゃいます。またこの十二という数字はお薬師さまの十二大願に基づいているとされています。お薬師さまの信仰は、病気の平癒を願う人々によって盛んになりましたが、これは十二大願の第六願に、もしも衆生の体にさまざまな障害があったり、いろいろな病苦に苦しんでいたならば、薬師如来の名号を聞くことによって、障害は消え去り、病気の平癒することが説かれていたり、また第七願に、衆生が病気に苦しみ、医薬もなく家族もなく、家もなく財産もない苦しみの中にあっても、薬師如来の名号をひとたび聞いたならば、さまざまな憂いは消えるとあります。

 このように、薬師如来は、人々の身心の病や苦悩を取り除き、また正しく生きる勇気を与えてくださる仏さまです。

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観音菩薩

 観音菩薩は、詳しくは観世音菩薩、または観自在菩薩とも呼ばれています。観世音とは、私達がその名を一心にお唱えすれば、すぐにその声をきいて、危険や苦難から救い、願いをかなえてくださるという意味です。また、観自在とは、慈悲のまなざしで私たちを見つめ、その願いに応じた姿となって、これを救ってくださるという意味です。それらは三十三のお姿となって導いてくださいます。

 観音菩薩は、手に開きかけの蓮華(初割蓮華)を持っています。これは大慈悲の力によって、私たちの心の中にある清らかな仏心を開かせ、安らぎと福徳を与えてくださるという大清浄の誓願を示しています。本来私たちの中には、仏さまと同じ心を持っているのだと、しかしながら、なかなかその清らかなる心に気づくことができないのです。観音菩薩は、泥の中からきれいな花を咲かせる蓮華のように、人々の心の中の清らかなる仏心を開いてくださるのです。

 日本においてはとても有名な仏様で、色々な場所でこのお名前は耳にすると思います。観音様がいらっしゃるとされる聖地は補陀落(ふだらく)山といい、インド南端の海岸にあると信じられています。観音霊場の一つでもあります、栃木県の日光も、補陀落(ふだらく)山→二(ふた)荒(ら)→二(に)荒(こう)→日光と転化した霊場とも言われております。

 観音菩薩の信仰の特徴の一つとして、さまざまな変化身として姿をあらわし、人々を導いてくださることですが、更にそのそれぞれのお姿にそれぞれの信仰があることです。観音様のことが記してある「観音経」、すなわち「法華経」の中の「観世音菩薩普門品」にいう、「普門」とは、観音菩薩があらゆる方向に救いの手を差し伸べることを意味しています。この特色が形をとって表されたものの一つが、十一面観音であります。十一面観音は、四方八方と上下を合わせた十の方向に顔を向けていることを示す十の顔と、本来の顔を合わせて十一面のお顔を持っています。また、あらゆる人々を救いだすために、千手観音は、、多くの手に人々を救うためのさまざまな道具を握り、救いこぼさないようにあらゆる方向に手を伸ばしているのです。他にも如意輪観音、馬頭観音や准胝観音といった観音様が有名です。

 この観音菩薩の自在なるはたらきは、どんな世界にも、またいかなる姿にも変化して表われ、救いの手を差し伸べてくださるのです。観音菩薩の力を念ずれば、さまざまな苦難にあおうとも、ことごとく滅し、また闇を破り、災難を鎮めてくれるのです。

 百ヶ日忌のご本尊様である観音菩薩の大慈悲の妙智力によって、煩悩をなくして、知らず知らずに作ってきた罪障を取り除き、生死にとらわれることのない、永遠の仏の世界に導かれるのです。